民俗信仰の教義(みんぞくしんこうのきょうぎ)
里の神、野の仏(さとのかみ、ののほとけ)
密教的寛容(みっきょうてきかんよう)
修験道・山伏(しゅげんどう・やまぶし)

民俗信仰の教義
 そもそも民俗信仰、民間信仰といわれる形態は、教義や教団、組織といったものを持たず、昔ながらの惣村などと言われる小規模な地域の共同体の中でそれぞれがその土地の気候風土に沿った何か、もしくは祖先そのものを対象として祀ったものが起源であると言える。
 当然、それは日本のみならず世界各地、「人住むところ必ず」といえるほど種々の形態で存在している。とりわけ日本では山・川・海・太陽・森などなどを対象とした自然崇拝と祖先崇拝とが織り交ざり、「神」「仏」(これは今日の仏教・神道界が組織化した神仏とは一線を画すべきである。)と呼ばれ、人は手を合わせ、柏手を打ち、祀ってきた。
 教義などというむずかしいものではなく、必要なのは、どうにもならない自然現象の脅威、生老病死の苦しみ、そして、村社会の秩序の平安。人が生きる上で必ず直面するそれら当たり前のネガティヴな要因と如何に向き合い、心身の安定を得られるか。

ただそれに尽きる。

何よりも大切なのは、『生きる』という切実な願い。

里の神、野の仏
 阿木には多くの神仏への信仰の歴史を物語る石碑、遺跡が存在し、その多さと多様さには驚かされ、興味関心を強く魅かれております。
 例えば神社。現在三十五ある地域の『組』のそれぞれに二つ以上の社があり、今も秋季に行われる『湯ざらい』の神事をはじめ、年に一度は神職を招いて神事を行うという行事、文化が残っております。そして、その近傍にはおよそ何らかの石碑や、地蔵菩薩、観世音菩薩、馬頭観音、弘法大師、役行者などの石仏があり、さらには庚申塚、四十八夜供養塔などが点在している。また、弘法堂、阿弥陀堂、薬師堂などなどの仏像を祀る小堂も多数点在し、歴史教室の先生曰く、江戸時代、農村では一揆などの取締りから、集会を禁止されていたため、信仰の場としてのお堂を建て、お念仏、お参りという信仰目的での集いをタテマエに、事実上の寄合を行っていたと伺い、これら諸堂の起源がそこにあるのではないかと伺いました。
 神も仏も隣同士。そこに伺える先人の祈る心と生きる知恵。そんな光景があちこちで見られる阿木の宗教文化は、明治初期の明治政府より発布された「神仏分離令」の影響も各組、社寺それぞれの対応によってその時をしのぎ、その名残りもまた、黒田組地区にある賽の神神社の「お堂に鳥居」の一見アンバランスな組み合わせや先にも述べました、神も仏も隣同士にお祀りされている光景など、あちこちでよくよく伺うことが出来ます。
 私見ではありますが、古来より農耕主体の生活に適し、他の地域に比べても、よほど穏やかな気候風土、豊かな自然環境に恵まれた阿木の土地柄から、仏教、神道が穏やかに肩を並べて祀られる、いわゆる日本的信仰への造詣は自ずと深まり、そして、先人が築き遺した神仏への思いも、数多の諸堂諸社、石碑石仏に見られるその名残から、大切に受け継がれ、今日に至っているのではないかと思います。、ご賛同いただければというしたたかな思いも込めて、制作を思い立ちました。
風神神社参道の石像

密教的寛容
 密教とは何か。それは、釈尊以来の仏教が、様々な状況や研鑽の過程において誕生した、ひとつの形態だと思う。事細かくそれらを述べることはここでは避け、あくまでもその性質として、とても分かり易く表現されている密教。広く一般にもその救済の教義は及び、また、受け入れられてきた親近感。そして、それが弘法大師空海上人によってもたらされた頃から、仏教は国家のためのみならず、日本の人々全体の精神性に影響を及ぼしてきたという事実。そのような事実から、密教というものがいかに寛容性、柔軟性をもって今日に至っているかがわかる。
 密教は以下のような内容を携え、そこに身を置くものは日々その実践に取り組んでいます。
― 即身成仏(そくしんじょうぶつ)・・・この身このままが仏であるということ
―法身説法(ほっしんせっぽう) ・・・大自然、宇宙そのものが真理を表し、我らに教えを伝えているということ
―三密加持(さんみつかじ) ・・・それらを身でこころで感じるため、身と口と心の全てを用いて励むということ

そして、これらをより分かり易く、伝えやすく、感じやすくするために、音や空間、諸像や曼荼羅、梵字といった形を描き用いております。
 「覚り」のため。あらゆる手段を講じそれを感得すべく、広く寛容な姿勢を維持していると言える。

修験道・山伏
 阿木には修験道の開祖とされる「役行者(えんのぎょうじゃ)」の石像が、今日でも七体残っておるとされ、天狗森山は行事岳と呼ばれ、風神神社はかつては修験者たちの行場として存在した。など、修験者たちが賑わしていた多くのその名残を今に見ることができます。
 その修験道とは山へ籠もるなど、大自然の中に身を置きながら厳しい修行を行うことで、精神を整え、悟りの境地を得ようとする日本の古来より存在したの山岳への信仰が仏教の、とりわけ密教の教義と織り交ざって成立した日本独特の宗教であります。そして修験道の実践者を修験者とか山伏(やまぶし)と呼ぶ。仏教伝来以前の日本にあった宗教、いわゆる古神道といわれるものは、森羅万象に命や神霊が宿るとして山や、森といった聖域や巨岩、奇岩を磐座(いわくら)と呼んでその信仰の対象としていたが、それらの大きな意味での山岳信仰と渡来した仏教の教義、作法などが習合し、そして密教などの要素も多く加味されて確立した。修験道は今日でも日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入って厳しい修行を行うことによって超自然的な能力「験力」を体得し、衆生の救済を目指す実践的な宗教でもある。この山岳修行者のことを「実践的な修行をして験徳を得る、修行してその徳を驗(あら)わす」ことから修験者、または山に伏して修行する姿から山伏と呼ばれています。
 風神神社界隈が行場として存在していたともされるこの地、歴史文献にみられる
修験者、山伏の足跡として大円寺村『福泉坊文書』内の「文政八年 岩村御領分寺院宗旨證文」という資料を紹介します。これは当時の岩村藩領内の寺院一覧表であり、今でいうところの仏教系宗教法人の一覧表です。
 そして、四行目からが今は無き修験山伏寺院の記述であります。

     禅宗播州加東郡山国村妙仙寺末寺 飯沼村 禅林寺  大長
     禅宗當国恵那郡岩村盛厳寺末寺  阿木村 万岳寺  秀格
     天台宗江州比叡山行光坊末寺   阿木村 長楽寺  慈延
     真言宗當山方山伏三寶院御門跡末流山伏 阿木村 正壽院 慶道
                         請負 寶性院 永龍
                   請負 下飯羽間村 壽寶院 秀海
                      請負 常光院 養子 智由
                      請負 藤村 長昌院 慈栄
     真言宗當山方和州内山永久寺同行山伏  阿木村 教寶院 祐海

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