社寺と惣村(しゃじとそうそん)
風神神社(かざかみじんじゃ)
阿木長楽寺(あぎちょうらくじ)
中津川市阿木(なかつがわしあぎ)

社寺と惣村
 惣村(そうそん)とは、中世日本の農村などにおいて、領主たちの支配が次第に行き届かなくなるにつれて発達した、百姓の自治的・地縁的結合による共同組織(村落形態)のことを言う。現在の集落のように、各家がまとまって住居を構え始めたのも惣村の形成と共にしており、境界、水利配分、もめごと、道路の修繕などの公共性を要することがらを住民の合議や取り決めで采配する自治組織。そして、やはりその集団の中心には神や仏が祀られ、祭事、行事といったハレの儀式を共同で行っていた。
 阿木にもまた無数の社が地区を分けた『組(くみ)』組織の中にあり、各組それぞれ水利権や山の木々、地権の分配、その他先人の経験則に基づいた取り決めなどの種々が存在していることからも、実に惣村と言うにふさわしい。
 神社、社については、誠に無数の祠が各所に点在しつつ、さらには村社として大きく祀られている八幡神社が阿木城跡のふもとにあり、さらには阿木川上流の風神神社、根の上高原手前には恵那山にまつわる天照大神の誕生神話にあやかった血洗神社がある。これらの村社は、この地が神代の頃からつながることを、その真偽を超えて今につながっていることを静謐に伝え、代々田畑山林を受け継ぐ住民たちのアイデンティティを側面から担っている。

 長楽寺もまた然りである。創建を平安時代の弘仁年間と伝えられ、境内には樹齢1100年とも言われる大いちょうを携えているから、その歴史はなんとなくながらも立証されている安心感がある。あくまでも自治的に事を治め、治安を維持し、防災のための協力を常に意識する。ここにあるここのやり方によって今までも、これからもつながっていくであろうこの惣村は、それそのものが今の日本では貴重な環境であると私は思う。

風神神社
 当社が示す由緒書きや碑文の中には、長楽寺との関係は何も触れてはいないが、長楽寺にはふたつの風神三尊像が祀られており、ひとつは明治の神仏分離令の折に社から長楽寺に移されたと伝えられています。また、江戸時代後期に製作された版画『風神祭之図』にも中心に長楽寺が描かれていることなどから、長楽寺は風神神社の別当寺としての地位を得ていた事を伺い知れる。
 元和4年の6月の再建、勧請。
 時の住職は真海上人。岩村藩主松平和泉守家乗の庇護を受け長楽寺を戦禍から復興させるべく尽力した上人である。再建の棟札には真海の銘があるとの事を聞いていることから、私はこの再建、勧請は真海上人によって成されたものと推測している。いずれにせよ、阿木川上流、行事岳とも呼ばれた阿木山界の入門としての地理にあるこの社は、その奥の巨岩の風穴を今も静かに守り携え、参拝の我々のこころに静穏な風通しを与えて下さるように感じています。

阿木長楽寺
 江戸時代の元禄年間(1688:江戸中期)の銘にて長楽寺にて僧侶となるための修行を行った証しとなる「加行札」が残されていたり、の天保4年(1833:江戸後期)には弘法大師像開眼との記録、文政12年(1829:江戸後期)には、時の住職慈栄によって『歴代年数等書上帳』が記されたことで、江戸時代においては脈々と継承された住職によって法灯が受け継がれたことが分かります。この、書上帳については、岩村藩へと提出されていることも『大円寺村福泉坊文書』によって伺え、藩内の長楽寺の地位が確かであったと言うことも併せて知ることが出来ます。
 これらの事柄から、真海住職に始まった長楽寺の江戸時代は、整えられた境内、新たに勧請された風神神社、そして穏やかな阿木の土地柄、農村の文化、人々の信仰に沿って繁栄し、信仰に基づく豊かな文化が今に至るまで残されたのだと思います。
 尚、寺伝書に依れば、創建は平安初期の弘仁年間に旅の僧三諦上人によって開創され、当時よりの本尊である十一面観音像(秘仏)と共に、本堂には数多の諸仏が祀られ、今日も地域の住民を中心に護り拝し、伝えられています。

―長楽寺の大いちょう (県指定天然記念物)―
長楽寺の境内に威風堂々とそびえるのが、伝承樹齢1100年の『阿木大いちょう』であります。
いちょう・銀杏といえば、古来より葉は薬用に用いられ、種子はギンナンと呼ばれ、食用として愛されています。また、いちょうの木には雄木と雌木がありますが、その中で阿木長楽寺の大いちょうは雄木であり、ギンナンの実を付けることはありません。阿木長楽寺の大いちょうの木の特徴は、幹周は8m40p、地上約3mところで幹が四本に分かれ、その太い所では周囲が4mもあります。また、木の高さは20mを超えており、昭和42年に岐阜県の天然記念物に指定されました。

 この大いちょうの木には二つの大きな焦げ跡があり、それぞれにその時代、その時の人、出来事に応じた歴史が刻まれています。まず、一つ目は今から約450年前の天正年間。二度にわたる岩村城をめぐる甲斐(山梨県)の武田軍と尾張の織田軍との戦いの際に、岩村城より敗走する武田勝頼軍が当寺を焼き討ったための大火にて付けられた焦げ跡。そして、もう一つは今から約250年前、江戸時代のこと。阿木長楽寺の前を流れる阿木川に架けられていた橋が流失してしまった折に、新たな橋の橋桁用材としてこの木を使用するという目的のため、地上3メートルの所から先を切り倒し、その切口を保護するために炭火を焚いて焦がした・・・と言い伝えられています。

 このように、幾多の災禍や風雪に耐え、地域の歴史を静かに見つめてきた大いちょうの木は、恋人同士、夫婦共に手をつないでいちょうの木に触れることで、夫婦円満、子宝授与、家内安全にご利益があると信仰され、遥か昔からこの場所で、この土地の歴史、人々を見守り続けております。昨今では、これを地域の大切な文化財として後世に伝えるため、地域の住民の方々が主体となって、保全・
PRに取組んでおります。

中津川市阿木
 阿木地区は「中津川市の南西にあり、岐阜県南東部に位置しています。名古屋市からJR中央線、明知鉄道と乗りついでおおよそ1時間20分の距離にあり、阿木川ダム下流域の特性を生かした親水公園やのどかな田園風景が広がっているなど、自然とのふれあいに適した場所です。昭和32年に中津川市と合併し現在に至っています。郷土芸能伝承として「安岐太鼓」が有名。風神神社の祭典や阿木のイベント等で演奏されている。またシクラメンとそばの栽培が盛んであり毎年11月末から12月初旬にかけて特産そば・シクラメン祭りを開催し即売会を実施し好評を得ています。」と紹介され、人口は2307人、824世帯(平成29年12月)となっております。
 昔ながらの日本の山村の風景。
 ここ阿木の印象はこの一言に尽きると言えます。中津川市内といえども、市の中心市街地への経路は、自動車にて県道407号線を飯沼方面へと進み、恵那市の一部を経由して至ればおよそ30分、国道363号線を辿って標高930メートルの根の上高原を経由し、国道というには余りにも細くカーブの多い山道を進み、カオレ地区を経由して25分。明知鉄道飯沼駅、阿木駅があるとはいえ一時間に一本の間隔、恵那駅までおよそ20分。いずれにせよ恵那市、中津川市街地とは遠くはなくとも近いとも言えない。また、いずれもひと山の隔たり。逆に南に向けば、そこは恵那市岩村町、江戸時代にはここに居城を構える岩村藩の領地とされてい
たことから、岩村町との関わりが深く感じられます。
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