五峯山塊(ごぶさんかい
天狗森山(てんぐもりやま
美濃焼山(みのやけやま
ロクロ天井(ろくろてんじょう
高松山(たかまつやま
橋が谷山(はしがたにやま

五峯山塊
 阿木山は実に深い。
 阿木小学校から眺めると、古来より行事岳とも呼ばれた天狗森山の稜線が右方向から一筋に横たわり、谷を挟んで橋が谷山がその左方に座している。
 ここから見えるのはこの稜線だけではあるが、その裏側には槇平、狸沢といった地名を持つ渓谷を抱え、さらに先には美濃焼山、ロクロ天井などの奥の峰が座している。
 また、その逆に美濃焼山の頂きより阿木の方面を眺めれば、その懐の深さを一望に鳥瞰出来る。息を呑むほど実に深く、次なる頂きへの好奇心と想像が湧き出してくる。
 この山塊の東の先には、さらに阿岳(1,501m)、鯉子山(1,590m)へと稜線は続き、長野県との県境に至って大川入山(1,908m)、恵那山(2,189m)へと山並が広がるように続いている。また、南西方面にはロクロ天井の頂きが眼下にそびえ、その先には岩村町内、修験行場としての遺跡も残る三森山へと続いていく。
 里から眺めるばかりのこの山々、阿木の里からの距離は意外と近く、過去には林業、炭焼き、木地師、猟民、そして修験者などが往来し、人々の営みの一環に存在していたであろうことが伺える。また阿木長楽寺の裏手、小高い山が高松山と呼ばれ、大根木地区の山の神として山頂に祠が祀られ、今日まで信仰を受けている。
 これら阿木山の山塊地図を広げ、稜線を辿り、方位、配置を眺め、時々出掛けてその地にこの身を置いてみる。そうすると、ここが行場、修行実践の場としての適地である事を感じる。

 この山塊は何かしらの意味をもってここにあるということに。

美濃焼山よりロクロ天井を望む

『天狗森山についての記述は、寛永8年(1631)の「廣岡新田神社由来記」によると、「天狗森二七ッ池トテ龍ヶ池有 雨乞之時是ヘ登ル 又鶴ヶ峰ニモ龍ヶ池有 是モ雨乞ニ登ル処ナリ前山之内ニ 三ヶ所之名地有 越沢 天狗花モリトテ亦南所花之時ハ甚ダ風景也松沢ニワ天狗スズミトテ見付洞ニ本所ノ平有 朴沢ノ相ノ峰ニハ天狗ノ遊ビ場トテ剣ワニシテ甚ダ風景也」
とあり、日照りの時には雨乞い祈願を山頂にて行い、その辺りには、天狗涼みと言う洞や、天狗の遊び場と言われるような平坦地がったと述べられており、農村にとって何よりも大切な雨を乞う山として古来より親しまれていたことが伺えます。
 今日の一般的な登山道は、阿木川をさかのぼった槇平までを林道にて進み(ゲート以降は徒歩)、そこから北西方向の橋が谷山との鞍部に向かう狸沢ルートであるが、阿木の生産森林組合の作業道として広岡清水からや、風神神社より少し上がったところからの廃道ルートなど、多数あると伺っています。ただし、山中には作業道が至るところに付けられており、周知の人の付き添いや地図読みが可能な方でないと、里に近いことが逆にあだとなり、思わぬところで迷ってしまうような山でもあります。尚、現在山頂には巨大な鉄の反射板が設置してある。

 阿木山の奥部、深い笹藪の懐を広げて佇み、中津川市内から眺めるその頂は、中津川上流、恵那山右奥に霊峰と言わんばかりの凛と静かな容姿を覗かせています。また、山頂からの眺めは、本稿で紹介した所々を逆に眺めることが出来るわけで、その懐の内を見渡すように阿木川の渓谷、阿木・岩村の田園を鳥瞰、北方は遠く中津川市街、恵那山、東南方は奥三河の山々を一望出来ます。尚、山頂から北西に向かって伸びる広大な笹尾根の途中、古い石の祠があるとの事を知り、益々興味は深まるばかりです。
 さて、この山のルートも槇平からさらに林道を進んだ先にある阿賀滝辺りからの笹を分けて入るルートがあるようですが、非常に笹が深く、登頂困難であると聞いています。しかし近年、南側にある上矢作町のNPO団体「福寿の里自然倶楽部」によって、上矢作からの登頂ルートが笹刈り整備され、林道歩きの距離はあるものの、非常に登り易い頂となっていました。

 南方に位置するロクロ天井の名の由来は、恐らく木地師との関わりが想像され、そのような記述も散見される。本峯は美濃焼山と共に岐阜百山に数えられてはいるものの、訪れる人は少なく、山頂を目指すには藪を分けて進まなければならない。この山のふもとには、隣の上矢作とを往来する林道があり、墓戸峠と言われる由来は、その峠に立つ一基の墓石によるものと伝えられている。
 阿木の里からはその頂は眺める事が叶わないが、美濃焼山からはその三角錐の頂きが堂々と眼下に聳えている。

 修行の山は標高が高ければよいというものではないということは他の霊地霊山を見ても判然としております。また、第二には大根木地区内の山であり、霊地聖域とされる場所が人里にも近い場所に存在することで、人々と身近になり、参拝、礼拝がより身近なところで叶うという利点もあげられます。
 信仰上もっとも大切な理由としての第三は元来阿弥陀如来の両侍の仏は観世音菩薩と勢至菩薩(せいしぼさつ)であり、阿弥陀三尊として信仰を受けております。
 これになぞらえて、この高松山を西方阿弥陀如来と配し、その手前にて佇むのが阿木長楽寺。十一面観世音菩薩が本尊であり、大いちょうの巨樹はその勢いある樹姿から勢至菩薩の変化身などと見立て、阿弥陀三尊を拝することが叶う浄土であると思えばこころ楽しい。
 とはいえ、いささか無理のある話ではあるかもしれませんが、創造とはこのようなことがきっかけであり、後は伝えられるか、忘れられるかの問題ではないかと思うのであります。

 森林地図には前沢と記されているこの山は、天狗森山と並んで阿木の里から拝することが出来る山である。天狗森山とは鞍部でつながっており、槇平からの登山道は狸沢をつたってこの鞍部へと至り左右に分かれている。
 橋が谷山は中津川上流の川上(カオレ)地区との境に位置しており、川上地区からは行者ヶ岳とも呼ばれ、中腹には透かしの壁と呼ばれる行者の遺跡があるという。その岩窟には行者の守護仏である不動明王の梵字や大日如来を示す梵字が刻まれた石碑が祀られ、往年の信仰を色濃く伺える場があり、恵那山の開山が役小角であることや、摂社に一言主が祀られていることなどから、この山域を往来していた数多の行者の姿が偲ばれます。
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