修行と行事(しゅぎょうとぎょうじ
入峯抖(にゅうぶとそう)
読経・修禅(どきょう・しゅうぜん)
水・火二元の行(すい・か にげんのぎょう)

修行と行事
 修行とはその道、ここで言えば仏道・神道・修験道などの道を意味し、先人達が築き守り伝えてこられた作法を尊重しつつ、自分自身の感覚によって得られた新たな作法もまた慎重に取り入れつつ、大自然における仏性の感得、自己の研鑽に取組むことである。
 その具体的方法とは、
「勤行・読経」(ごんぎょう・どきょう)、「峯入り・抖」(みねいり・とそう)
「禅定・瞑想」(ぜんじょう・めいそう)、「水行・滝行」(すいぎょう・たきぎょう)
「火行・護摩行(柴灯護摩)」(かぎょう・ごまぎょう(さいとうごま))
「六波 羅蜜の実践」(ろくはらみつ)などと分けられ、事細かく言えばさらに多くの事柄の修行が存在し、その究極こそが生きることそのものと思うのである。
 この中に記される六波羅蜜の実践行。もっとも身近であり、故に地味で厳しいものではありますが、それは我々人間が社会の中で生きていく上でも、とても大切な行の実践を意味しています。

― 六波羅蜜とは
・見返りを求めない無償の施しをさせていただく「一、布施(ふせ)波羅蜜」
・道徳・法律等を含め、仏教者たる規律、戒めをを持ち守る「二、持戒(じかい)波羅蜜」
・いかなる屈辱にも耐え忍び、こらえる中に今の自分がおかれた状態にも可能性があり、それでも尚仏性の存在を模索出来るか否かを問い続ける「三、忍辱(にんにく)波羅蜜」
・努力を怠らないことを「四、精進(しょうじん)波羅蜜」。肉類を食べないことを一般には精進料理といいますが、精進という言葉にはもっと大きな意味があり、限りあるこの人としての生命、ひとときも無駄にすることなく日々誠心誠意尽くすことが大切です。
・こころ静かに思慮をめぐらせる「五、禅定(ぜんじょう)波羅蜜」。めくるめく毎日を送るなかにも、ふと静かに自己を見つめる時間、努力を必要とされます。
・一連の修行を行じて、深く見つめ、判断をしていく根本的な立場は、自分自身の経験やプライド、立場にとらわれた考え方ではなく、必ずそれはホトケのココロ、ホトケの立場、仏様ならばいかようにこれを捉え、判断し、動くだろうかとうことを離れてはいけません。それを「六、智慧(ちえ)波羅蜜」と呼び、金胎不ニの境地に立って、生きて行くことを行として受け入れなければなりません。

 この様に日々日常、時には山にて、時には仏堂にてこれら身口意の行の実践を意
識しながら取組むことは、修験行者はもとより、広く仏教徒全般にも共通して
いうことのできる大切な心がけであります。

入峯抖
いわゆる「山登り」とはなにが違うのか。
 装束を整えて山に挑み、山中に身を置いて、ひたすら野山を歩く。景色だけにとらわれるのではなく、自分のココロとも向き合い、今ここで抖していることの意味を問い、山川草木に悉く宿る仏性を感じられるかを思う。抖の行は複雑な作法などを抜きにしても取組める、生きものとしての、自然の一部としての人間が、その最前線にて行う行であると言える。
 修験行者として峯に入り、抖の行を行う時には、修験行者独特の装束(衣装)を纏うことで、その装束が兼ね備える機能はもとより、それぞれに込められた、秘められた意味、意義、役割を携えることとなり、修験行者はその力、その結果をより明確に得ることができるとされます。
それらの修験十六道具と呼ばれるものたちは、それぞれ不二の世界、十界、不動明王、母胎などを象徴しています。 白衣(はくえ)の袖を通し、手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)を締め、鈴懸(すずかけ)を羽織る。山袴(やまばかま)を穿いて腰紐(こしひも)を締め、各々結ぶべきところの紐を締め、引敷(ひっしき)を腰に充てる。さらに貝緒(かいのお)を腰に括って、結袈裟(ゆいげさ)を掛け、最後に頭襟(ときん)を額に頂いて装束は整う。峰に入る不安や躊躇を一気に包み込んで、「いざ」と言わんばかりに気持ちが勢い立ち、「お守りいただく」というなんとも奇妙な安心感とでもいえるか。とにかく心境の変化を感じる。

読経・修禅
「勤行・読経」
言わずと知れた一般の家庭からお坊さんまで仏教徒であれば一度は体験したことのあることではないでしょうか。
先人が考え、記した言葉、仏が語った真理について、仏を讃じる真言など言葉には大きな力を備えており、多くの意味を含んでいます。
とりわけ口密に働きかける行として、声を出して、お経を読むということはとても大切な行であります。

「修禅・禅定(瞑想)」
静かに座って姿勢を整え、呼吸を整え、意識を整える。
仏の姿や功徳、働きを想ったり、ただ静かに呼吸を整える事に集中したり、方法は様々であるが、静かに向き合うという大切な行であります。

水・火二元の行
「水行・滝行」
〜厳しい修行〜といえば真っ先に思い浮かべる行ではないでしょうか。
静かで清らかな水面に身を浸し、もしくは、山谷から流れ落ちる清流に身をぶつけ、怒涛、水しぶきを上げながらひたすらに祈る。肉体を通して自己を極限
まで追いつめて、精神を一点に集中させる。清らかな水に自己をゆだね、不浄な精神、意識を裁つ。
清める禊。水垢離(みずごり)。水行には言葉では伝えきれないほどの多くの意味、価値、感覚的触発がある。

「火行・護摩行(柴燈護摩(さいとうごま))」
 山伏たちがやぐらのように組んだ木、葉を燃やし、モウモウとした煙が立ち込め、その後に凄まじい勢いの炎が立つ。大柴灯護摩の儀礼である。
 護摩とは密教伝来の作法で、炎を如来の砕ける事ない確かな智慧の象徴と見立て礼拝する。堂内、もしくは山中で行う作法もあれば、このように多くの行者によって成立し得るものまである。先の水行と対をなす、胎蔵、金剛両界の象徴的な行であり、大柴灯護摩に付随して火生三昧や湯立て等、炎を用いて験得をあらわす行が多数存在します。
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